悪人 吉田修一 2007年4月30日発行 朝日新聞社
久しぶりに楽しめる本でした。
大きくも無い普通の大きさの活字にもかかわらず420ページという長編ですが、たった三夜で読み切ってしまいました。
タイトルが「悪人」、そして保険外交員である若い女性が山中で殺されるという事件から始まる物語なので、事件の真相以上に作者がどんな「悪人」を描こうとしているのかということが、この小説を読み続ける中で一番の興味となります。
物語は、時間軸に沿って各登場人物の過去の状況を第三者が語るという形の短編形式でテンポよく描かれていきます。これは、この小説が朝日新聞に連載されていたということで、日々読者を惹き付ける構成となっていたからなのでしょう。途中からその状況を語る短編の間に、時間軸を現在に戻した登場人物たちが自らの口で語る談話形式の話が入ってくるようになります。全体のリアルで細かな情景描写と相まって、まるでテレビのドキュメンタリーを見ているような気にさせられて、物語が進むに連れて次へ次へとのめりこんでいってしまう魅力があります。
読み続けていくと、だんだんと登場人物の関係、性格、事件の真相などが明らかになっていくのですが、タイトルとなるほどの「悪人」や、「悪人」と比喩されるようなものはまったく出てきません。それどころか、登場人物がだんだんと人間らしくなってきて、けして品行方正、真面目とは言えないまでも、弱い部分を持った、どこにでもいるような愛すべき人間達に思えてきます。自分勝手な佳乃や人の心を察することができない増尾も、腹立たしさは感じるものの「悪人」には程遠い感じがします。
420ページの残りページが少なくなってきても、まったく「悪人」の気配すらありません。勘のいい読み手ならばその意味を少し前で気付きはじめるのかも知れませんが、私は最終ページの最後の行で、「悪人」というのをタイトルにしている理由がようやくわかったという次第です。この最終行をこういう形でさっと終わらせていることで、よけいにそのインパクトが強く感じられて、「そうか、やられた」という気持ちにさせられました。すばらしいエンディングだと思います。
相手の事を思い自分を悪人に貶めてしまうということは、とても切ないことです。そこまで相手のことを思うというのは、その相手は大切で大切でたまらない人であるわけです。大切な人の心や今後の人生を救うためとはいえ、その大切な人から自分に対する好意の気持ちを抹殺するということは、永遠に大切な人を捨去るということに他なりません。しかもそのことは自分の胸の中にしか真実は残らないわけで、胸が締め付けられる思いになります。
この小説の真実は読者の感じ方次第ですが、それはどうでもいいことかも知れません。「悪人」という立場をとったことで、母は心の負担を無くすことができ、恋人は元の穏やかな生活を取り戻すことができたという事実があればいいと思います。
こういう「悪人」に比べると、巷で俗にいう「悪人」なんて、なんと自分本位で情けない亡者なのかと思ってしまいます。
文句無しに没頭して楽しめる事ができた小説でしたが、少し気になるところもありました。登場人物の性格の一貫性に違和感を感じるところ(心の変化があったとしても)、珠代が「光代のことをお姉ちゃんって呼ぶことはなかですね」と談話で言っているにもかかわらず、最初「あ、そうだ、お姉ちゃんも行く?」という会話があるところ、など。意図的なのか、そうならば何か意味があるのか、一度読んだだけではまだまだ掴みきれない部分があるのかも知れません。結末を知った状態で、それぞれの登場人物の振る舞いの意味にあらたな発見をするために、もう一度最初から読んでみたいと思ったりします。
【小説】悪人

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