いじめと自殺

いじめで自殺する子供が多くて心痛めていたら、今度は校長の自殺が相次いでいます。
先日、ある特集番組で某大都市の知事から、
「昔もいじめはあった。自殺が多いのは今の人間がひ弱になっているから。」
という発言がありましたが、一理はあるかもしれないですが十理ではありません。
昔も今も、弱い人がいて強い人がいて、それはそんなに変わらないんじゃないかと思います。それに、弱い人が悪くて強い人が良いというものでもありません。
昔は、人の死といえば身内や近所のお年寄りの死であり、死は年老いたものに訪れるものだという感じが強かったです。たまに病気や事故などで若い人が亡くなったりすると、可哀想だの、親が辛い思いをしているなどという話を親や周りから何度も聞かせられて、若い人の死は普通のことではない、良くないことなのだという意識が自然とつきました。
しかし今は、死というものに対するそういう意識が、少し変化してきているような気がします。これだけ、ニュースで事故や自殺が報道されて、ドラマでは毎週のように殺人や病気で人が死んでいきます。
自分が死ぬという「シチュエーション」が、そんなに特別なことではなくて、なにかあると「死ぬ」という選択が自然と頭に浮かんでくるようになってきているのではないでしょうか。
それは、いじめるほうも同じ。
相手が「死ぬ」かもということを、特別なことと思っていないのでしょう。相手が選ぶ選択肢のひとつとして、当然のごとく存在しているように思います。
死ぬことは、美しいことでも、かっこいいことでも、普通の出来事でもありません。自分という存在も生きているからこそ意味があるのであって、死んでしまったら自分もくそもありません。
どうせいつか死ぬのだから、とりあえずは生きてみましょう。
明日はもっと悪い日かもしれませんが、少しは楽しいことがあるかも知れません。親のために死ぬな、家族のために死ぬな、そんなきれいごとは言いません。せっかくこの世に自分として生まれた偶然と奇跡、それを捨て去ることはもったいないことです。自分のために生きて欲しいと思うのです。
とは言うものの、私にも経験ありますが、死ぬことを本気で考える時というのは、まともな思考回路が飛んでしまっています。そういう時は、まわりの言葉も聞こえず、何を考えても死という結論にしかたどり着かないものなのです。
やはり、心が健康な時に、自殺はばかげたこと、おろかなことと教え、死は軽いものではないということを植えつけることが重要なんでしょうね。
それと・・・
一番大切なのは、辛いことや苦しいことから逃げることを、まわりが受け入れてあげることだと思うのですが、これが一番判断と実行が難しいのですよね。
しかしねぇ・・・
こういう話はいつも自殺する側に向けての考えや意見になりがちなのですが、本当は、人を死に追いやるような陰湿ないじめをする人間が多くなったということが本質的な問題なのだと思います。
某大都市の知事が言う「昔のいじめ」は、「今のいじめ」と質が違うところを見過ごしてはいけません。
死ぬ側が弱くて病んでいるのではなくて、死に追いやる側が弱くて病んでいるのではないかとさえ思ってしまいます。
今、世の中は、死ぬ側を見つけ止めるのに懸命の状態ですが、本当は、死に追いやる側に対して世の中がきちんと対応していかないと、こういう事件はこれからも無くならないような気がするのです。

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