2009年7月22日、水曜日、日食の日。
昼休みにいつもネットでニュースを見るのが日課ですが、いつものアサヒドットコムを開くと、いつもと違ったロゴが目に入りました。デザインが変わったのかと思ったのは一瞬。そうか、日食バージョンかとすぐに気づきました。
Googleも同じく、日食バージョン。
私の住んでいるところは、朝は太陽が出ていましたが、日食時刻の10時半から11時頃は曇り。
それ以前に、打ち合わせなどがあり、空を眺める時間がありませんでした。
少しくらいは暗くなるとかなるのかなと思っていましたが、曇り空と部分日食では、その明るさもあまり変わないようです。日食だと騒ぐ人もいなくて、いつもと同じように特別なはずの一日は過ぎていきました。
各地は大騒ぎ。
特に、誰も知らなかったのに突然有名になってしまった悪石島は、この日に備えてツアー客を受け入れる準備に追われ、ツアー客も高いツアー代を払って訪れたものの、暴風雨で外で体感することもできない有様。上海も雨で残念。硫黄島が穴場だったようです。
この騒ぎをニュースなどで見て、人それぞれ価値感が違うものだとあらためて思った次第です。
日食自体が神秘的で、部分日食すらそれを目にすると感激してしまうものだと思いますが、もう一歩進んで、日食を見た機会に天文や宇宙に興味を持つ人が増えればいいなぁと思ったりします。
私は、宇宙のことを考えると、頭がおかしくなるくらいに理解不能で混乱してしまいます。理屈はわかるのですが、その理屈が自分の考える事ができるスケール感をはるかに越えてしまって、自分なりの知識(例えば物理法則)のつじつまをあわそうとすると、わけがわからなくなるのです。
光で何万年というだけでも、頭は混乱してきます。
それを認めると、光とは何だ?
もし、宇宙をひと目で眺められる超巨人がいたならば、その巨人は我々の知っている「光」でものを見ることができないのじゃないか?
マクロ空間を考えると巨大な宇宙がわからなくなるということは、我々の世界を宇宙の大きさ(そんなもの定義できるかい!という考えは脇に置いておくことにします)としたら、我々の世界に相当するミクロの世界は、「光」の概念が異なるのか?
そこで、そのつじつまをあわすために、光速度不変の相対性理論が出てくるわけで、それを理解しようとするわけです。そうすると、今度は時間や空間が絶対的なものでは無いということが出てきて、よけいに頭が混乱してきて、宇宙や、時間や、空間とはなんだ?とますますわけがわからなくなっていくわけです。
これで理系人間というのは恥ずかしくなります。
というか、宇宙を語るには、理系人間よりも文系人間の方が夢が広がるかも知れません。
理屈よりもロマン。
理系は理系なりのロマンがあるのですが、それはある考え方や法則ですべてが成り立つということを証明するというロマン。もっと人間くさい(宇宙に人間という概念を持ってくること自体、理系はなじまない)夢をみるのは文系の考えるロマンの方が楽しいような気がします。
日食なんて、たかが太陽と地球の間に月が入り込むだけのこと。
すごくわかりやすい現象です。
しかし、はるか離れた太陽の地球から見た大きさと、ローカルな地球の衛星である月の地球から見た大きさが、ほぼ等しいということを考えると、本当に不思議。
地球が月を持っていることも、不思議。
そういう不思議な偶然が、日食という神秘的な現象を生み出すと考えれば、やはり感激してしまいます。
あらためて、宇宙や太陽、地球の存在、そしてそこにいる人類の存在を意識し、その存在の不思議さに惹き込まれます。
日食で、感じ、思うことは、果てしなく広がっていきます。
日食で、感じ、思うこと
徒然の思い

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